1992年の10月、マツダ本社はル・マン参加活動の休止を発表しました。
でも、私たちはル・マンをやめるつもりはありませんでした。日本、そしてヨーロッパをはじめ世界各国のファンの皆さんが、私たちのチャレンジを楽しみにしてくれているからです。また、ル・マンの主催者A.C.O.も、それを強く望んでいるからです。私たちは6月のル・マンの住人として、すっかり住民登録されているから、そこにいるのが当然という空気が既に出来上がっているのです。

1993年は、チームとしてはクルマも予算も間に合わず、連続出場の記録は12年でストップしましたが、私はロータスから声がかかり、ドライバー個人としてル・マンに参加しました。
毎年恒例になっている木曜日のランチョンパーティーは、フランスにおけるマツダ車インポーターであるフランスモーターの協力もあって、マツダスピードとして開催しました。A.C.O.の役員も全員きてくれました。こういう友好関係っていうのは、とってもうれしいし、「私たちはやっぱり毎年ここへこなければ行けないんだ」という気持ちを新たにしたものです。

同じようにメーカーの支援なしでもロータリーエンジンを使ってレース活動を続けているアメリカのジム・ダウニングと連絡を取り合い、協力し合ってル・マンに出ようと約束したのが1994年のことです。
この年は、彼らの作ったRX−7GTOを借りて、ル・マンに行きました。4ローターエンジンを搭載した1991年のIMSAGTOチャンピオンカーです。この年のレギュレーションではGTSクラスとして登録されました。また、後にドライバーとして長くコンビを組むことになるフランクとは、この時初めてジョイントすることになりました。
結果は15位でしたが、私たちの再出発には試練が似合っていると思います。でも、ともかくル・マンにロータリーの灯を点しつづけることは出来たのです。
翌年から本格的にジムとタイアップし、ル・マンチャレンジプログラムをスタートしました。レギュレーションでは、GTカーとオープンボディのプロトタイプカーが主流となってきました。私たちはプロトタイプカーを選び、デイトナとル・マンの2つの24時間レースをターゲットに、クルマを作りました。
こうしてできた1995年の「DG−3」は、3ローター搭載車でしたが、総合7位に入り、再び総合優勝への道に少しだけ近づくことが出来ました。ボディのカラーリングも、1991年の優勝車から継承したビクトリーカラーを使い、「再びビクトリーを」の合い言葉をジムと確認しあったものです。
1996年もビクトリーカラーを施した3ローター車、「DG−4」をル・マンに持ち込みました。「DG−3」の発展型です。
しかし、レースでは駆動系にトラブルが発生し、5時間もピットストップを強いられたため、25位の最下位という結果でした。
1997年もジムとのジョイントで参加しました。結果は総合17位でした。
レースは当然結果が求められます。また、資金力=技術力という側面もあります。メーカーがル・マンから撤退した
以後、私達に残されたのはいばらの道でした。まるで1980年に後戻りしたように、資金も技術も限られたものしか使えません。
しかも、例え個人の資格ででも、私がル・マンを続けることに反対する空気すら生まれつつありました。私は決断の時が来たのだと知りました。