最初に私がこのサルトサーキットに来たのは、1974年のことです。
シグマMC74というクルマでした。12Aという2ローターエンジンを搭載した2シーターのオープンカーで、当時国内のグランチャンピオンレースに出場していたマシンを改良したものです。
フランスの全国紙「ル・モンド」に「カミカゼ・チャレンジ」などと書かれて、話題を提供したものですが、レースでは散々な目に会いました。タイヤがバーストしてボディワークがボロボロになってしまったり、6kmのストレートを走っていたら吸気のエアファンネルをエンジンの内部に吸い込んでしまったりと、予想もしなかったトラブルが続出し、挙げ句の果てにはピットでエンジンをオーバーホールする始末です。
24時間目にチェッカーフラッグを受けることはできましたが、何時間もピットに張り付いていたために規定周回数にみたず、完走とはみなされませんでした。世界の壁、ル・マンの壁がいかに高くて堅牢であるかを痛感した初体験でした。

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2回目のチャレンジは、1979年です。
発売されたばかりのマツダRX−7に13Bエンジンを搭載したIMSA GTU仕様で、「マツダRX−7・252i」と呼んでいました。ボンネットにでっかい日の丸を描いたクルマです。
この時はクルマを熟成する時間が短かったことに加えて、タイムアタックを担当したドライバーが予選中に体調不良だったりと不運が重なり、予選不通過の不名誉を味わいました。
この時、決勝出走できずに他のクルマのエキゾーストノートをむなしく聞いたあの屈辱感が、その後のチャレンジの原動力とはなったことは言うまでもありません。

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1年間のブランクの後、1981年に3回目のチャレンジです。
クルマは252iの発展型の「マツダRX−7・253」です。この年から2台体制で、チームに英国人、フランス人などを招き入れて国際混成部隊を組織しました。
しかし、結果は2台ともリタイヤ。ル・マンは、なかなか私たちの努力を受け入れてはくれません。 おそらくクルマの総合バランスを緻密に取るという耐久レースならではの技術や、チーム運営のノウハウを本格的に勉強しろ、という試練だったのだと思います。とにかく、「完走」の2文字が当面の課題でした。

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翌1982年は、「マツダ254」というクルマでした。
253の改良版ですが、細かい部分への空力的な配慮が多数盛り込まれており、今見ても「カッコイイ」デザインだと思います。駆動系やエンジンのサービス性にも十分研究して改良を加えました。この年の結果は、1台はリタイヤだったのですが、私が乗ったクルマはなんとか完走することができました。
でも内容はハラハラものでした。トラブル発生におびえながら、23時間以上クルマをいたわりながら走っていました。ところがチェッカーフラッグまで残すところわずかというところで突然エンジン音がバラつき始めたのです。ドライバーは私です。
周辺の条件からそのまま走行を続行することは非常にリスキーだと判断し、私はクルマをゴール手前数100メートルのところでグリーンに止め、4時が来るのを待ちました。オフィシャルが駆け寄ってきて、なにやらがなっていましたが、彼らも恐らく私の気迫に圧倒されたのだと思います。しまいには何も言わず、一緒になって時計を見つめていました。
そして4時、祈るような気持ちでスターターを回すと、「ボンッ」とエンジンに火が入りました。この時のゴールは、私にとって一生忘れられない感動的なものでした。

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1983年はレギュレーションが変わって「グループC」というプロトタイプカーのカテゴリーが主流となりました。私たちは、13Bロータリーを搭載したグループCジュニアの「マツダ717C」を新開発し、2台ル・マンに持ち込みました。新ルール初年度は、2台とも完走して、さらにグループCジュニア部門1位・2位という成績を残すことができました。
しかし、これまでのツーリングカーとは次元の違う車両の開発プロセスが必要でした。私たちは、そのための新しい体制を模索しました。ディーラーチームでできることには、やはり限界があると感じたのです。